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コラム

地域研究者の独り言

2005年10月1日

慶應義塾大学 教授 山本 純一

フランスのヴェルレーヌは「数学者になるほど想像力が豊かでなかったので詩人になった」という。その伝からすると、私は、数学者は無論のこと、詩人になるほど想像力が豊かでなかったので地域研究者になったといえる。しかも、メキシコという、日本から見ると遠い地域の。

なぜこんなことを考えたのかというと、今話題の藤原正彦・小川洋子著『世にも美しい数学入門』(ちくまプリマー新書)を読んだばかりだったこともあるが、大学に就職するときにお世話になった方から自作の詩集が送られてきたからだ。『冬 ふみわけて』と題されたその詩集を毎日一篇ずつ読んでいるうちに、いかに自分に詩心がないかを痛感させられるとともに、フランス文学やロシア文学に燃えた高校時代を思い出したのだ。

高校時代の第二外国語はフランス語だった。ただし、フランス文学に憧れてというのではなく、真偽のほどは定かではないが、フランスでは数学が盛んだと聞いたからだ。実は、高校に入るときまでは、数学が得意で(単純な論理だが)数学者になりたいと思っていたのだ。入学時の数学の先生が「数学科に進むといいぞ。なんたって鉛筆一本でできるのだから」と勧めたせいもある(鉛筆一本で安上がりかもしれないが、儲かりもしないとは思ったが)。そんな私が数学嫌いになるのは早かった。付属だったのであまり勉強もせず、部活に精を出したので、一夜漬けが効かなかった理系、とくに数学の成績が急降下したからだ。その反動か、文学書を読み始めた。日本文学、フランス文学、ロシア文学と読んでいくうちに、大学の露文科に行きたいと思うようになった。愛読していたショーロホフの『静かなドン』を訳した先生がいたからだ。でも理工学部に行けという父親と大喧嘩をし、あいだをとって(?)、政治経済学部に進むことになった。そして大学で南北問題と出合い、『貧困の文化』を読み、漠然とメキシコに行きたいと思うようになった。だが、まさか自分がメキシコに通算5年以上も住み、メキシコを研究対象とするようになるとは思いもよらなかった。

さて、数学に話を戻そう。前述の『数学入門』で藤原氏は、「図形化する、視覚化するということが、数学の発展では重要です。理解とか発見には視覚化というか、イメージがしばしば必要です」といっている。地域研究者の私もそう思う。

たとえば、日本の将来だ。「構造改革」「郵政民営化」「小さな政府」「官から民へ」といった、一見わかりやすいキャッチフレーズがマスコミを賑わせている。でもみなさん、そのような「国のかたち」を具体的にイメージできますか? 私にはできない。そこで次のように視覚化してみた。

国のかたち

「構造改革」や「官か民か」という議論で決定的に欠けているのは、官でも民でもない、いわば第三のセクターが歴史的に存在し、政府や市場の失敗を補う役割を果たしてきたという事実だ。端的には協同組合や互助組織、宗教団体、NPO(非営利組織)などが果たしている公的な役割のことをいう。国家が社会福祉を担うのは非効率的であるからといって、そのすべてを市場(民)が賄うことはできない。市場は利益を追求し、利益にならないことはやらないからだ。図のように、社会という監視役がいてはじめて国や市場の暴走を止められると思う。地域社会や市民社会というアクターが機能してはじめてバランスのとれた国ができると思う。

私が専門とするラテン・アメリカでは、早い国では70年代から市場原理を重視した「構造改革」が進められ、「大きな痛み」を経験した。その結果反省が生まれ、中道左派の政権が続々と誕生し、現在では「構造改革」の見直しをしている(ご興味のある方は内橋克人・佐野誠編『ラテン・アメリカは警告する―「構造改革」日本の末来』新評論をお読みください)。

このように、イメージを具体化するには、図形そして他国から学ぶ必要があることを痛感する。